こんにちは、システム部のマルです。
みなさん元気でお過ごしでしょうか。
今日は週末インドから現代思想まで駆け巡りたいと思います。
インドでの週末
インドぐらい広い国だと10時間単位の移動はざらにあります。見知らぬ土地の景色と移りゆく町並みを眺めながら思索に耽る時間は、つらさもさることながら旅の醍醐味の一つです。
今回は時間が限られているので、長距離移動はできませんが、ローカルバスに揺られてどこか近場へ行ってみることにしました。
こういうときは行き先は決めずにランダムにバスに乗ると、どこに着くのか分からない楽しみを味わえます。
ということで、2週目の週末は地下鉄で最終駅まで行って、近くにあったローカルバス乗り場で適当なバスを見つくろいがてら、温かいチャイを一杯。
アジアの国では、ある程度の距離のバス乗り場には大抵お茶や軽食をいただける店があります。そこで軽くお腹を満たすのも旅の楽しみの一つ。チャイと一緒にベジマサラバーガーを頬張っていると、良い具合に空いたぼろぼろのバスの運転手が大声で何か叫び始めました。
バスの運転手の慌ただしい様子からそろそろ出発することを察した僕は、急いでチャイ屋にお金を払いそのバスに乗り込みました。
案の定5分ほどしてバスは出発、全開の窓から少し乾いた風が吹き込みます。どんなに空気が汚くても、車窓から流れ込む風は気持ち良いものです。
しばらくすると手に何か持ったおじさんがお金を集めにきます。隣に座った若い子にいくら払えばいいのか聞くと20Rpsとのこと。
目的地がないので一律料金で助かりました。ポケットからぼろぼろの紙幣を取り出し、おじさんからチケット兼レシートを受け取ります。
チャイ2杯分のわくわくを片手に、心地よいバスの振動に揺られていると、20分くらいしたところで急にバスが停車しました。そこは自動車専用道路のようなところで、とても降車地点のようには見えません。
運転手が運転木の隣にあるエンジンルームのようなものの蓋を開けて何かしています。運転席の近くの乗客もその様子を覗き込んでいます。すると急に運転手が何か叫び出し、一斉に乗客が立ち上がりバスを降り始めました。
自動車専用道路のど真ん中でバスが故障、さすがインドです。そして乗客は何事もなかったかのようにそそくさと後ろから来た同じ色のバスに乗り込みます。僕も何事もなかったかのように彼らのあとについて同じバスに乗り込みました。
10分くらいすると、オートリキシャーとチャイ屋が見えてきました。どうやら降車地点のようです。乗客もみな立ち上がり降り始めます。今回は完全に自由な一人旅というわけではないので、あまり遠出しすぎるのは避け、ここで降りることにしました。
わらわらと群がってくるリキシャーの運ちゃんたちを振り払い、Google Mapで確認すると、どうやらグレーターノイダという町に着いた模様。ウッタラプラデーシュ州というデリーの隣の州の端っこに位置している計画都市です。日本で言うと浦安とかみたいな感じでしょうか。
特に何があるわけでもないのですが、やはりデリーの中心部とは全然違います。
やっぱりなんと言っても、カレーに次ぐインドの代名詞、牛です。
そして自転車とクルタを着たおじさんやサリーを着た女性。川沿いに捨てられた大量のゴミと、熱帯性の木の根元にお供えされたヒンドゥー教の神々の絵や置物。近代的なデリーに感動してた僕ですが、やっぱり少し離れると8年前に見たインドとそんなに変わらない風景。牛のお尻を見ながら少し懐かしい気分になります。
とはいえ、このあたりの住宅地の家は割と高級な感じで、小綺麗な一軒家がたくさん並んでいます。庭の手入れをしている人や、公園でクリケットを楽しむ親子など、東京の郊外と似た感覚を覚えます。そういえばオフィスの人たちも割とみんな車で1時間くらいの郊外に住んでいると言っていました。巨大都市の構造はどこも共通ですね。
偶然着いた郊外住宅地のお散歩を楽しんだ僕は、リッチにもタクシーに乗ってホテルまで帰りました。
ある程度お金のある短期滞在は楽ちんです。
ハイパーリアル化するインド
突然ですが、僕は大学で美術史と社会学を主に学んでいました(プログラミングと全然関係ない!)。その世界では超有名なジャン・ボードリヤールというフランスの現代思想化家がいるんですが、彼の代表的な著書に『シミュラークルとシミュレーション』という消費社会について論じた作品があります。”シミュレーション”はみなさんのイメージする通りの言葉とさほど違いありませんが、”シミュラークル”という言葉は聞き慣れないと思います。
これはフランス語で「虚像」「イメージ」「模造品」などを意味する言葉で、ボードリヤールは一人歩きを始めた”記号”を意味するものとして使用します。”記号”とはなんらかの”オリジナル”のものを指し示すものです。例えば言葉も”記号”ですが、これは感覚器官が捕捉した刺激を右脳が直接的に感じ取り、それを左脳が表象する際に使用される”記号”です。
そして、もはや”オリジナル”が意味を失い、”記号”のみが一人歩きを始めた状態のものが”シミュラークル”です。
ボードリヤールによれば、”前近代”・”近代”・”現代”は、異なる価値法則にもとづいています。彼はそれぞれの時代における価値システムが依拠する法則を、”前近代”は神や自然に基づく”自然的価値法則”、”近代”は労働によって生産される”商品的価値法則”、”現代”は、記号(シミュラークル)の差異に基づく”構造的価値法則”と定義します。
ボードリヤールは1970年台の思想家ですが、彼は当時のアメリカ(1970年代当時)を、シミュレーション社会と呼び、シミュラークルが新たな現実を生み出す様を”ハイパーリアル”と呼びました。
プログラミングに造詣のある方にわかりやすく説明するなら、なんらかの実装クラスに依存した”オリジナル”のクラスをインスタンス化するとします。インスタンス化の際には実装クラスがDIされます。メインの処理の流れは”オリジナル”クラスに記述され、その詳細な内容は注入される実装クラスが司っています。
これは”オリジナル”クラスがきちんと機能を果たしており、それをモデルとした実体化されたインスタンスは、抽象的な”オリジナル”クラスの実体化にすぎません。
対して”シミュラークル”は、”オリジナル”クラスに実装をDIしたインスタンスではなく、”オリジナル”クラスを継承して全メソッドをオーバライドした子クラスのインスタンスのようなものです。もはや”オリジナル”クラスはメソッド名以外、何の意味も果たしていません。
この子クラスは一見すると、”オリジナル”クラスのインスタンスですが、その中身は完全に独立しており、”オリジナル”クラスともはや関係ないクラスと言っても過言ではないでしょう。
この子クラスを用いて新たなアプリケーションを作るとしましょう。
“オリジナル”クラスは元々の要件を満たすコア機能が実装されていたと仮定します。
実装者はもはや”オリジナル”クラスについて何も知らず、全てがオーバーライドされた子クラスのみを知っています。しかし、この”オリジナル”クラスはコア機能を全て備えていたので、なぜか重要視されています。
このアプリケーション内では、この子クラスを前提とした実装がなされます。この子クラスを用いた処理が実装され、この子クラスを継承したクラスも生まれるかもしれません。
このアプリケーションの内部は、”オリジナル”クラスを用いたアプリケーションとは全く別個の新たなエコシステムです。そしてもはや”オリジナル”のアプリケーションが担っていた役割は果たせないかもしれません。
しかし、それでも”オリジナル”クラスを継承したクラスが重要視される。
これが”ハイパーリアル”です。実態とは何の関係もない”記号”が、新たな現実を生み出していく。ボードリヤールは、現代社会はこの”記号”間の差異こそが価値を生むと言います。もはやオリジナルの実装に意味はなく、いかに新たな実質的には意味のない子クラスを生み出せるかが価値を生むと言うのです。
1970年代に既にそんな洞察をしていたボードリヤール、すごいですね(ちなみに僕はSF映画『マトリックス』が好きなんですが、監督のウォシャウスキー姉妹はマトリックスの理解を深めさせるために『シミュラークルとシミュレーション』を出演者に読ませていたとか)。
さて、なぜこんな小難しい話をしたかというと、インドの近代化にハイパーリアルの萌芽を感じたからです。
グレーターノイダに行った翌日の日曜日、僕は代官山的な立ち位置の街と言われるハウス・カズ・ヴィレッジに遊び行きました。ハウス・カズは街並み自体は普通のインドの街並みですが、特定のエリアに行くと近代的な若者向けのカフェやクラブ、バーなどが立ち並んでいます。
この街の雰囲気は、ほぼ完全に近代化されているサイバーシティとは大きく違いました。英語を話せない若者も多く、ビルはコンクリートが剥き出しで、所々崩壊していますし、道端には普通に昔ながらの屋台があったりもします。まさに近代クラスをDIして実装真っ最中といった感じです。
しかし、この街で遊んでいる若者たちは”現代”的な価値観を内在化し始めていることをはっきりと感じました。DJがかけている曲はパンジャービよりも、テックハウスよりの音が多く、店員の子は、「このクラブの客層は”Clean”だよ」と言っていました。客も音楽を聞いたり踊りに来るというより、クラブに来ること、つまりクラブという記号そのものが価値であるような振る舞いを見せていました。
場所によっては道端のチャイ屋も、サリーやクルタを着た人々も、オレンジ色の服を着たサドゥーも、物乞いをするホームレスや子供も、我が物顔で道を闊歩する牛も野良犬も、穴だらけの道路も姿を消しつつあります。
黒いスプレーで全体を塗り模造品のジャガーのエンブレムをつけた車が街を走り、アディダスやナイキの服は、同じようなクオリティの服よりとても高い値札をつけてハンガーに吊るされています。おしゃれなカフェのチャイは道端のチャイ屋の30倍ほどの値段しますし(僕は道端のチャイが大好きです)、カフェレストランのピザやパスタは、ローカルレストランのターリーの5倍ほどの値段です。まさに”近代”という記号が消費されている状態です。
インドは今まさに、様々なクラスに”近代”というクラスをDIして実装を続けている段階だといえます。そして、一部では既に”近代”クラスが役目を終え、もはやオリジナルメソッドをオーバーライドした”現代”クラスが生まれつつあります。幸いなことに、オリジナルメソッドの実装を残したクラスは多く残ったままですが、いつか完全にシミュラークルに覆い尽くされてしまうのでしょうか。
ボードリヤールはシミュラークルは現実の不在を隠蔽すると言いましたが、シミュラークルが生み出すハイパーリアルもまた、”構造的価値法則”に基づく新たなリアリティです(オリジナルメソッドを全てオーバーライドしたクラスからも、また子クラスが生まれるように)。
そしてそのハイパーリアルこそが消費社会のエンジンです。今後、インドがどのようなハイパーリアルを見せてくれるか、とても楽しみですね。
最終日
オフィス最終日は、帰り際にみんなにお別れを言って、タクシーに乗り込もうとしたら、セールスチームのマネージャーのアシシが大量のインスタントチャイを手渡してくれました。
アシシは自分のコーヒーを頼むときに、いつも僕にもコーヒーかチャイか聞いてくれて、チャイ大好きな僕はいつもチャイを頼んでいました。それを見て、チャイを選んでくれたんでしょう。ありがとう、アシシジー。
ホテルに帰って荷物をまとめた後、さっそくアシシのくれたチャイを飲みました。スパイスと生姜と短いインド滞在の思い出でほんのりあったかくなり、インドオフィスのみんなに感謝しながら眠りにつきました。みんな、本当にありがとうございました。
翌日、PCR検査を受ける必要があったので、朝から空港に向かいました。国際線のロビーはとても混んでいて、”現代”的な衣服に身を包んだ人々がたくさんいます。
予約は事前にしてあったんですが(アモッドがインドの口座から支払ってくれた!)、PCR検査場もめちゃくちゃ混んでいて、どのように受ければいいのかまったく分かりません。まごついていると、これからロシアに向かうという若者が手助けしてくれ、無事に検査を受けることができました。本当にインド人は見知らぬ人にも親切です。
PCR検査を終えた僕は、フライトまでまだ時間があったので、GMOグローバルサインのインド責任者(よく喫煙所で一緒になってた!)がおすすめしていた、エアロシティという空港近くの街に向かいました。
ここもまたハイパーリアルを感じさせる場所で、ココナッツウォーターも現代的なフラットデザインの容器入りで、屋台の5倍ほどの価格です。パニールティッカロールも購入し、のんびり空港に戻りました。
パニールティッカロールを食べ終えた僕は、5時間くらいたつのにPCRの陰性結果がスマホアプリに送られてこないので、とりあえずそれでチェックインできるか確認するためJALのカウンターに。するとちょうど良いタイミングで陰性結果が。
無事、保安検査も通過し、ひと安心。空港にしかない自販機でオレンジジュースを買っていると、インド人のおじさんがお金を渡してきて、買い方がわからないから同じやつを買ってくれと。
最後まで、ほっこりさせてくれます。
本当に今回の滞在はいろんな人に助けられてばかりでした。
バックパックをしたときも色々なトラブルと、それを助けてくれる人々との出会いがありましたが、今回もたくさんの人に助けてもらいました。
そしてみんな一様に”No problem”と言います。懐の深い国だなあといつも感謝・感心します。
インドが、こういったインドの良さを残したまま、どんな新たなハイパーリアルを作っていくんだろうと思いながら飛行機に乗り込みました。
出発前後・滞在中に手助けしてくれた皆さん、本当にありがとうございました。